◎仙波仙芳塚縁起
『七千年前、当地が海辺であった事は近くの仙波貝塚がそれを実証していますが、此丘に川越の大地誕生の浪漫縁起が伝えられています。
文化元年(1804)建立の丘頂の碑面には仙芳眞人入定塚とあり裏面には「むかし仙芳なる眞人(神仙)が龍神の助けを得て海原を干上げ喜多院の前身たる無量寿寺領を造り上げ処所に入定、当地はその由縁を以って仙波と称す」と刻まれています。
仙波には大和朝廷が平城京遷都した頃の六世紀中頃、当時の豪族の築いた古墳が散在していて、近くの日枝神社古墳 慈眼堂古墳は有名です。
また此塚から平安時代の瓦経が出土している事実もあり、仙波は太田道灌が築いた川越城(長禄元年、1457)に先立つこと数世紀前より歴史の舞台に登場しており、つまり川越のルーツは仙波、そのルーツは仙芳塚といえます。
かなり以前のこと、家内の母親の郷里である村上の観音寺を車で訪ねた事がある。
(川越市医師会会報第100号)ガラスケースに納められた真っ黒なミイラがあった。爪だけは長く伸びているので興味深く観察していると、尼さんが飛んできて、仏様は拝むもので観察するものではありませんといって叱られた。
観音寺の即神仏は仏海上人といい、明治36年に入定された最後の即神仏で、それ以後は日本では禁じられている。
昭和36年に発掘調査され、今でも寺の奥に井戸のような深い穴があった。
帰りに新潟の西生寺による。
日本最古の即神仏があるという。
川越に帰ってきてから考古学の好きな友人に話したところ、川越には「仙芳眞人入定塚」があることを教えられた。』


◎暦応の古碑 県指定・史跡
『暦応の古碑として指定されているが、その実は「暦応□□□□月十五日」の銘のある板石塔婆で、上部に弥陀の種子キリークを刻し下半分に52名にのぼる喜多院(無量寿寺)の歴代の住職の名と見られる者を刻している。
喜多院の歴代の住職の名を知る資料は他にないので、この碑文が重要な意味を持つところから、県の史跡として指定になったものである。
梵字の真下中央に「僧都長海現在」とあるので、暦応(南北朝時代初期)の頃の住職であったことがわかる。
昭和五十四年三月 埼玉県教育委員会 川越市教育委員会』


◎喜多院本堂
『慶長4年(1599)家康の信任厚い天海僧正が北院(仏像院)の第27世を継ぐことになり、その後喜多院と改めた。
三代将軍家光が寛永大火の後、江戸城紅葉山にあった家光誕生の間・春日の局化粧の間を書院に移した。

 

 


◎五百羅漢 市指文化財 有形民俗文化財
『山門のすぐ北にあり、本堂から書院拝観入り口に戻り、 境内へ出て中央の土産物品店脇より入る。
喜多院の五百羅漢は、形こそ大きくないが立像、坐像、臥像など変化に富み、彫刻がきわめて優秀で石像美術の傑作として有名である。
川越在北田島の百姓で出家して志誠と名乗った人が、天明2年(1782)に発願して建てはじめたのが起源である。
40体程できたところで亡くなり、その後山内坊舎の慶厳、澄音、祐賢などがその遺業をついで、浄財を諸方に勧請し、文政の初年までに前後50年の歳月を費やして完成した。
実数は540体を数え、またこれほど整備され、まとまりのある五百羅漢は全国にも珍しく、近年の石像ブームにマスコミにも再三取り上げられ、終日参拝者が絶えることがない。
昭和52年ll月19日には、皇太子殿下美智子妃殿下が行啓された折り、この五百羅漢を大変興味深くご視察なされた。
中央高座の大仏に釈迦如来、脇侍の文殊、普賢の両菩薩、左右の高座の阿弥陀如来、地蔵菩薩を合わせ全部で538体が鎮座している。
なお、境内に入ると左手に沙羅双樹が見られる。
5月になると、お花見が終わった境内に白い花をひっそりと咲かせる。
その昔は五百羅漢の南側の扉など無く、境内にはいっでも自由に出入りできた。
若くして親を亡くした子は、真夜中に石像の頭を触ると暖かい石像があり、印を付けておいて翌朝行って顔を見ると、 親の顔に似ていると言われた。
戦後は喜多院の西北に指定地(遊郭)があり、一般の人は近寄らなかった。
旧制中学時代に指定地内に同級生がいたので、若気の勢いで興味深く立ち寄ってみると、廊下を挟んで六畳の部屋が左右に並び鏡台だけが置かれていたのだった。』


 

 
山口建美

昭和27年3月     埼玉県立川越高等学校卒業
昭和34年3月     東京医科歯科大学医学部卒業
昭和34年4月〜35年 3月同大学医学部附属病院にてインターン
昭和35年4月     第28回医師国家試験合格
昭和35年4月     東京医科歯科大学医学部第一内科入局
昭和45年6月     川越にて山口内科医院開院
 
 
 
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