私は以前から歴史的なものに興味があり、<川越歴史散歩>と名づけて知人を連れて川越の街を散策したこともあります。
このたびは川越市薬剤師会の会報に連載で載せていただくことになり、うれしく存じております。歴史の街、川越をご一緒に散策していただければ幸いです。

◎中院  市指定・史跡
 『中院創立の縁起は喜多院と全く同じで、天長7年(830年)慈覚大師によって創立された。
中院
元来星野山無量寿寺のなかに北院・中院・南院の3院があり、それぞれ仏像院、仏地院、多聞院と称していたものである。
 当初の中院は、現在の東照宮の地にあったが、寛永10年(1633年)東照宮建造の折りに現在地に移されたものである。
喜多院に天海僧正が来住する以前は、むしろ中院の方が勢力を持っていたことは、正安三年(1301年)勅願所たるべき口宣の写しや、慶長以前の多数の古文書の所蔵によって知られる。
平成四年三月 川越市教育委員会』

 太陽寺一族の墓は鐘桜門そばの六地蔵南側にある。太陽寺家は秋元喬知の川越移封に際して、甲州より従ってきた。宝永元年(1704年)太陽寺盛胤は学者として郷土の地誌「多濃武之雁」を著わしている。
 鐘桜門を入って右手に、星野山無量寿寺仏地院中院歴代先徳の墓がある。ここは入ることもでき、奥のほうには最近の亡くなられた住職の墓もある。

◎不染亭
 『不染亭は昭和の文豪島崎藤村先生が静子夫人の母堂加藤みき刀自に昭和四年に贈られた茶室で川越市新富町に建てられて在りました。この度此処に株式会杜長谷工がマンションを建築することになり、川越市当局・長谷工・藤村学会・地元有志の熱望に依り、加藤家の菩提寺星野山中院に移築することを依嘱されました。移築に当って、住職並びに中村工務店は責任を以って事に当り、茶道会館に学び表千家妙風会の尽力を得て、誠心誠意遂行されました。
 茲に藤村先牛の母堂に贈られた孝心と遺徳を偲び、昭和の川越市の文化財として長く活用し、伝承して行きたいと思います。
平成四年十一月十七日 星野山中院 六十七世表千家妙風会々長 仁平信海』

 中院の南側の塀にそって行くと中央に近いところに加藤みき刀自の墓がある。その墓石には「蓮月不染之墓」と島崎藤村自筆といわれる字で書かれている。
 最近気が付いたのだが、島崎藤村全集全19巻の総ての表紙裏に自筆で書かれたものがあり、この字と比べてみると全く同じであるのがわかる。
 私が案内する時は藤村の義姪(島崎藤村の後妻加藤静子夫人の姪)が小学校の同級生だった事を思い、とても懐かしく感じる。(川越市医師会報123号)しかし、小学校に通う頃は「男女7才にして席を同じゅうせず。」という時代だったので、通学路の途中にある藤村の寄贈した茶室の前の明仁堂医院が住居だったが全く知らなかった。最近、同級生だった女性が余りに嘆いている私を見かねて、セーラー服姿の若い頃の可愛い彼女(もっちゃん)の写真をコピーして持ってきてくれた。
公表することはできないが私は大事にしまってある。
 昔、彼女の家があったところは現在の丸広デパートの北約100mの所にある長谷エマンションの入り口で、現在は植え込みの中に藤村が寄贈した不染亭のことが書かれている。なお、当時反対側に須永病院があり、長男の方は私と同じ大学で一級上の先輩であった。暫く大学に残っていたが佐賀医大の内科の教授をされて数年前に亡くなられた。なお、私の小学校時代の通学蕗だった不染亭の前の道は須永通りいわれていたが現在は八幡通りといわれている。

◎南院(多聞院)跡
 中院の北東で県立総合高校の北にある南院跡は、人家に囲われたわびしい所だが、喜多院に行く前には必ずお参りする。川越の無量寿寺にとっては由緒ある寺院の跡地である。中院・喜多院を案内するときは、必ず立ち止まって、往時を忍んでいる。

山口建美

昭和27年3月     埼玉県立川越高等学校卒業
昭和34年3月     東京医科歯科大学医学部卒業
昭和34年4月〜35年 3月同大学医学部附属病院にてインターン
昭和35年4月     第28回医師国家試験合格
昭和35年4月     東京医科歯科大学医学部第一内科入局
昭和45年6月     川越にて山口内科医院開院
 
 
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