光西寺
  光西寺は最近、東側に新しい山門を築いた。正面の彫刻といい、門の内側の彫刻といい、素晴らしいものである。又、立札にもリアルな歴史が書かれていた。

◎緇川山 浄楽院 光西寺
  光西寺は、永禄九年(1566)に、石州浜田(島根県浜田市)に、恵誓法師を開基として寺が建立されたのに始まる。浜田藩士の菩提寺として尊崇されていたが、天保七年(1836)十代藩主康爵の時、藩は日本海の孤島「竹島」を根拠地として外国との貿易(当時は禁制)を行って、幕府の政策に違反した。ことは幕府の密偵間宮林蔵の調べで露見し、藩は本来ならば御家取り潰しになるところ、徳川家の親藩の故をもって減刑、重臣の岡田頼母、松井図書の二人が責任をとって切腹、船頭が処刑され、藩は奥州棚倉(福島県)に左遷転封されるにとどまった。家臣ともども光西寺も棚倉に転住し東林寺に仮住まいした。棚倉在住三十余年、維新の危機に直面した幕府は、城主松平周防守康英の英明と外交的手腕を重視し、老中職に任じ川越城主に転封させ国内国外の重要政策の責任者とした。慶應二年(1866)十月、光西寺も家臣とともに川越に転地し、南町養寿院門前の千手院を仮寺とした。
金剛力士像
その翌々年は明治元年、明治維新となったので、寺領も貰えず寺の建立もならず、漸く大正の末に現在の場所に小堂を建立したのである。藩についてきた寺ということで土族寺とかお供寺とか呼ばれている。
  光西寺の表門脇に書かれている立札を読むと、はっきり松井家(松平家)の過去のことが書かれており、また最近韓国との間で話題になっている竹島のことがリアルに書かれている。この立札を読んでいると60年近い昔に帰って、住職であった近藤鉄城先生に歴史を教わっているような感じになるのは私だけだろうか。
  光西寺表門内側には、金剛力士が山門を支えている像がある。ある方の話によると、高僧が世界一高い須弥山(しゅみせん)で天空を支えている像で、俗界から仏界に入る門を支えている姿なのだそうだ。
漁樵問答図
 
黄初平
  後日、ある方の紹介で光西寺の現住職近藤哲城師にお会いすることができた。住職の書かれた『無別道』なる光西寺々報によると『門の壁面にある彫刻は光西寺にある掛け軸の中から選ばれたもので、北側の彫刻は橋本雅邦の漁樵問答図、南側は川合玉堂の黄初平が彫ってあるのだそうです。「漁樵問答図」は、漁師と樵とが互いにその天分とする境遇について問答する様子を描いたものです。「黄初平」は、中国の漢の時代の仙人の寓話です。初平が道士に会い神通力を得て仙人になり、羊を岩に変えて45年後に蘇生させるという話です。』
  近藤鉄城先生は旧制川越中学時代から川越高校の漢文の先生だった。当時1級上の先輩が遊んでいたので、光西寺書院に集めて囲碁を教えてくれた。私は近藤先生に誘われて、同級のS君と参加したが特に近藤先生に打って頂いた記憶もなく、詳しいことは覚えていない。私はS君と真面目にやっていたが先輩は適当に遊んでいたようだった。当時の先輩は下級生にとってはとても恐い存在だったので、先輩と囲碁を打つ気持ちにはなれなかった。受験に失敗して、もう好きなことをやって良いと親父に叱られた私は、毎日囲碁の文庫本4冊をポケットに入れて通学した。
  暫くして学内の囲碁大会で優勝した。更に東大医・医科歯科・慶大医・慈恵医の4大学の対抗戦を行い、主将戦でも勝つことができた。開業してからある先生が高価な碁盤を買われたので、当時県下一と言われていたM先生と対局して勝たせて頂いた。(川越市医師会報18号名盤入魂記)その後徹夜で局後検討をして高血圧の発作(BD230↑)を起こして以来、囲碁は打っていない。
  私が川越高校生の頃、お世話になった近藤鉄城先生は数年前に亡くなり、現在は松井家累代の墓の西側にある歴代住職の墓地に永眠されている。私は光西寺にくる時は必ず墓参させて頂く。近藤先生は終戦で戦地から引き上げてこられたので、近藤部隊長という仇名の先生だった。国語、特に漢文を教えて頂いた記憶がある。
  私の知人に先祖が石州浜田から奥州棚倉を経て川越に来られた方がいる。その昔はご夫婦で石州浜田まで行ったことがあるそうだが、80才に近いこの頃では残念ながら行けないとのことである。なお、殿様と一緒に移住された仲間で作られている温知会は現在でも続いており、石州浜田や奥州棚倉を忍ぶそうだ。その知人の先祖の墓地は長喜院ににある。なお、奥様は私の遠い親戚に当たる方だが、詳しいことはわからない。
 
 
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